
2024年12月2日がニンテンドーDSの20周年ってまじ!?
昔はよく遊んでたなぁ・・・このDSの発売日にまつわる四方山話ってなんかある?

あるぞ!
そうだな、今回はその中でもゲーマー界隈に有名な『空白の17分』についてお話しようか!
本記事を読めば任天堂がソニーに対して鮮やかな奇襲を決めたことで発生した『空白の17分』とは何かがわかり、ついでにその時代の背景やその時のゲーム業界の情勢が分かります。
筆者にとっては任天堂の凄さが垣間見えた瞬間だと思っているので、この出来事を知らない人達にも知ってほしいですね。
任天堂好きにとって、任天堂の凄さが分かる素敵な内容になっているので、マジで最後までご覧下さい!

この記事は故岩田社長が大好きで、亡くなってしまったときはガチで1週間ぐらいテンションがどん底に落ち込んだ1ゲーマーが書いています。
任天堂の奇襲『空白の17分』とは
最初に、この『空白の17分』とは何かを簡単に説明します。
『空白の17分』とは2004年9月21日に15時30分から行われるはずだった、PSPの価格や発売時期が発表されると推測されていた『PlayStation Business Briefing 2004』が17分遅れて15時47分になったという事件です。
背景を知らない人からすると「イベントがちょっと遅れただけでは?」となってしまう出来事ですが、背景を知る人達はこの『空白の17分』に関してあれやこれと推論を出しています。
当時のSCE側は遅れた理由を「役員が交通事情で到着が遅れているため」としていますが、港区南青山にあるSCE本社から千代田区丸の内にあるパレスホテルまで約3キロ程度という道のりなので、遅れるなんてことは考えにくいという背景もあります。
そのため、ゲーム界隈では「遅れた理由は遅刻ではなく、裏で重大な判断がなされたからでは?」と考えられており、その最大の理由が任天堂の奇襲と言われているんです。
詳しくは後述しますが、その奇襲とはこの発表会の1時間前に、任天堂が突然公式ホームページに『ニンテンドーDS』を値段や発売日までセットで発表したことで、これがソニー側の計算を全て破壊したと言われており『空白の17分』を発生させた元凶だと言われています。

この17分になるまでに色々とあり過ぎたから、逸話になってるんだよ・・・
そのための背景をこれから解説するぞ!
ニンテンドーDSが誕生した2004年頃のゲーム機事情を4つに分けて解説!

『空白の17分』の裏側を探るには、当時のゲーム業界の時代背景をある程度把握しておく必要があります。
簡単にまとめると要点は以下の4点となるでしょう。
- 据え置きゲーム機は2000年に出たソニーの『PlayStation 2』が圧倒的に強く、2001年に出た任天堂の『ゲームキューブ』を圧倒していた
- 携帯ゲーム機は『ワンダースワン』や『N-Gage』など色々出ていたが、2001年頃に出た任天堂の『ゲームボーイアドバンス』と2003年に出た『ゲームボーイアドバンスSP』が強く、任天堂が覇権を握っていた
- 任天堂が覇権を握っていた携帯ゲーム機界隈にソニーが殴り込むために『プレイステーション・ポータブル(PSP)』という存在を発表し、売りに出すところまできていた(2004年12月12日PSPは発売)
- 2002年に42歳の若さで岩田聡氏が代表取締役社長に就任しており、任天堂の舵取りを任されていた
簡単にまとめるとこのようになります。
2004年は据え置きゲーム機のほうは任天堂がかなり劣勢でしたが、携帯ゲーム機では任天堂が圧勝していたという状態でした。
ところが、その携帯ゲーム機市場にソニーがPSPをひっさげて乱入しようとしているのが2004年です。
この頃からソニーは任天堂側のゲーム機より性能で上回ることを意識し始めており、ソニーのPSPは当時の携帯ゲーム機で覇権だった『ゲームボーイアドバンス』や『ゲームボーイアドバンスSP』をはるかに上回る物となっていました。

ソニー側は、任天堂が2001年と2003年に『ゲームボーイアドバンス』と『ゲームボーイアドバンスSP』と出していたので、新規ゲーム機が出ないってふんでたと思うぞ!
ニンテンドーDSの発売や『空白の17分』を時系列で解説

時代背景が分かったところで、この『空白の17分』がどのように発生したのか、携帯ゲーム機の歴史に主眼を置いた時系列でお話します。
先ほどの情報と照らし合わせれば、任天堂側がいかに策士だったのか、ソニー側がどれだけ驚いたのかも見えてきますよ。
任天堂は創業して以来山内家の人達が受け継ぐ同族経営でしたが、当時の任天堂社長の山内溥氏が岩田聡氏に惚れ込んでおり、その山内溥氏が意思決定を社長に一任するスタイルではなく、新たな時代に対応すべく集団指導体制に移行するためのものだった。
岩田聡氏は就任後の2003年の東京ゲームショウで日本のゲーム離れ現象を食い止めるための『ゲーム人口の拡大』を理念を公表、任天堂はスペック重視なゲーム機とは違うアプローチで開発を進めるようになります。
その一環が『ニンテンドーDS』であり『Wii』ですね。
そして、その考え方は今でも任天堂に受け継がれており、広く支持されています。
今でも根強いファンがいる『ゲームボーイアドバンスSP』が2003年2月14日に発売されます。
価格は12,500円でしたが、2004年9月16日には改定され9,800円とかなり安くなりました。
この存在があったため、ソニー側は新たな携帯ゲーム機は出るとは考えていなかったと思われます。

普通はこういった新機種が出た1年後にさらにもう一個出るなんて思わないよね・・・
ソニー(SCE)が携帯ゲーム機に殴り込む宣言を2003年5月14日に明確に行います。
当時のPDF史料が今でもネット上に落ちているので、気になる方はこちらをどうぞ!
ちなみに、当時の資料には概要がある程度発表されており、そこを引用するとこのようになっていましたね。
■“PSP”概要
プラットホーム名称: “PSP”
ディスプレイ:バックライト付きワイドスクリーン(16:9)、TFT LCD(480×272ドット)
対応ディスク:『UMD』再生専用60mmφ光ディスク(1.8GB)、著作権保護技術対応
映像符号化技術:MPEG4
グラフィックス:3D(ポリゴン/曲面生成)
サウンド:PCM(ステレオスピーカー内蔵、ステレオヘッドホン出力)
入出力端子:USB2.0ポート、メモリースティック・スロット
バッテリー:充電型リチウムイオン電池

このときすでにある程度の概要まで発表されていたんだな・・・
当時の経営方針説明会で岩田氏が興味深い発言をしています。
詳しくは言えないと前置きしつつ、「異質な商品を開発している」という内容のものです。
実際に、2画面に分かれているタッチパッド形式のニンテンドーDSは異質中の異質でしょう。
ソニー(SCE)が携帯ゲーム機にPSPを発表して約1年後に発売予定日をひっさげて詳細を公開しました。
今回の発表ではサイズなどを含めてより細かい商品発表を行っており、ある程度形が想像できるレベルになっています。
こちらの情報元もネット上でPDFでまだ落ちているので、気になった方はこちらをどうぞ。

任天堂側もこの発表を絶対に注目していただろうから、そこからあの動きになったんだろな・・・
この日は先に紹介したSCEの『PlayStation Business Briefing 2004』が千代田区丸の内にあるパレスホテルで15時30分から行われる予定でした。
その1時間前にまさかの任天堂からのニンテンドーDS発表です。
しかも発表内容がこの『報道資料』のみとなります。

今でも任天堂の公式ホームページで見られるこの1ページ、画像もない報道資料ですが、これがとんでもない破壊力を秘めていたのです。
この日の発表会でPSPの価格や発売日が出てくると思われていましたが、それに完全に対抗した形での発表となります。
その対抗策は以下の通りでしょう。
- 価格:PSPが29,800円になると言われていたためまさかそれの半額でくるとは誰も思っていなかった
- 発売日:PSPはソニーが語呂合わせが好きで12月3日や12月12日などに出ると言われていたため、12月3日の前日となる12月2日のニンテンドーDS発売日は明確に話題をかっさらいにいった
このように、完全にPSPを狙い撃ちした形を取っています。

これがPSPの価格や発売日の発表会1時間前に出されたんだぜ?
こんなの絶対パニクるやろ・・・
発表会から17分遅れでようやく始まったと思ったら、何故かPSPの価格や発売日の発表がされることなく終わってしまいました。
先述したとおり、この17分の遅れは「役員が交通事情で到着が遅れているため」と説明されたが、多くの方が「絶対にニンテンドーDSの価格や発売日発表に慌てて色々と予定が狂ったから相談していた」と考えたのです。
距離的に、交通渋滞に巻き込まれるところにSCEがないというのもありましたね。
そして、このときの17分がいわゆるSCE側の焦りとして『空白の17分』と表現され、ゲーム業界におけるちょっとした伝説となりました。
一応、この日は日本国内ソフトウェアラインアップが発表されましたが、ニンテンドーDSの方が注目度は高かった印象です。

裏でどうすんのか、色々と揉めてたんやろうなぁ・・・
2004年10月27日にSCEから正式に発売日と価格が発表されました。
価格は約3万円になると言われていたので、発表を聞いた方々は驚いた人多数です。
ただし、この価格はあのニンテンドーDSが驚きの価格だったことに対抗してここまで下げたという指摘があります。

絶対価格はニンテンドーDSの影響受けてるよね
ニンテンドーDSがアメリカで11月21日から発売開始となります。
このようにアメリカで先行発売されている時点で、日本国内の12月2日という日程は狙い撃ちしているものだと改めて思いますよね。
ゲームボーイアドバンス用ソフトとの互換性も加味したこの神ハードは発売日からとんでもない速度で売れて、PSPの話題を打ち消す存在となります。
特に、発売日から『スーパーマリオ64DS』『ポケモンダッシュ』『きみのためなら死ねる』といったタイトルが用意できたのは大きく、クリスマス商戦にもガッツリ乗っかったのも大きいです。
2004年12月12日にSCE待望の携帯ゲーム機がついに世に送り出されます。
しかし、▢ボタンの反応が鈍い・ボタンがへこんだまま戻ってこない・液晶パネルの内部にゴミみたいな物がある・傷が付いている・電源が入らない・ソフトが飛び出すなど初期不良が大量発生し、悪い意味で話題になります。
特に、ソフトが飛び出すのインパクトが凄まじく『フライングディスクシステム』として話題となり、ネタにされ続けました。
今でもYoutubeでその動画がアップされているので、気になる方はどうぞ。

リッジレーサーのカウントダウンに合わせてカセットが飛び出るなんて映像が当時メッチャ流行ったな・・・
このように、ソニーの戦略に多大な影響を与えた結果発生したのが『空白の17分』であり、任天堂ファンからは伝説の一幕として、ソニーファンからは黒歴史として扱われているんです。
ニンテンドーDS二十周年!策士任天堂による『空白の17分』を振り返る!
今回はニンテンドーDS二十周年を振り返るため、一部ゲーマーでは四方山話となっている『空白の17分』について取り上げました。
- 『空白の17分』は携帯ゲーム機に殴り込むためにPSPを持ってきたSCEに対する任天堂の奇襲によって発生した発表会の遅れと言われている(公式発表はただの遅刻)!
- 故岩田社長になってから誕生した渾身のゲーム機!
- ニンテンドーDSの価格や発売日は明確にPSPを意識していた(特に発売日は顕著)!
この『空白の17分』は公にはただ単に発表会に参加する幹部が遅刻しただけとされていますが、ニンテンドーDSの発表を知っている人達にとっては理由はそれではないと言われています。
筆者も任天堂側の奇襲が原因と思っているので、そういう意味ではこの『空白の17分』を忘れることはないでしょう。
今でも、任天堂はなんらかの発表を被せることでライバルの盛り上げをつぶすって戦法をちらほらとっているので、そこら辺は変わっていませんよね(FF16の発売日前日に『Nintendo Direct』をやってFF16の話題がSNSから消えました)。
こういった四方山話も時々していこうと思うので、ゲームの歴史がちょっとでも気になるという方は、ブックマークなんかしてもらえると嬉しいです。